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Zakkaboh Photo Exposure

Zakkaboh photo exposure  "De photo Flos sketches"

《時節・_・襍感⇔“平成の香り!!”》

         

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「おかめ桜」
淡い紅色の一重咲き。花が下を向いているのが特徴。すっきりとしてるが、実に瀟洒
4年前、2015年3月22日に伊東市池で出逢った“おかめ桜”の咲き始め。
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「おかめ桜」Cerasus ‘Okame’寒緋桜と豆桜を交配して1947年に作出した品種。
これを作出したは、英国人桜守の コリングウッド・イングラム(1880~1981)。
大英帝国の末期に活躍した園芸家で明治・大正時代に日本を3度訪れている。
イングラムが日本で収集した珍しい桜は、自宅に植樹され120品種を数えた由。
今、英国で多様な桜が見られるは、イングラムの尽力。知られざる英国人「桜守」である。
イングラムは、今日でも英国園芸界では「チェリー・イングラム」として知られる。
かつて、日本に向けてイングラムは、伝統の桜の減少を心配し憂い、思いを発信していた。
幕末に開発された新品種の「染井吉野」が国中に勢い良く広まっていた事を危惧している。
成長が早く経済的で見栄えある染井吉野は、新生日本のシンボルとされたようである。
伝統的桜が、少なくなり日本の桜の風情・景観が大きく様変わりしていった。
染井吉野はクローンであるため、どの樹も同じDNA(デオキシリボ核酸)をもつ。
大量植樹の結果、「花がいっせいに咲いて、いっせいに散る」光景が誕生した。
これがやがて軍国主義に利用され桜の散り際に焦点を当てる風潮が生まれていく。
戦禍によって伝統的桜は滅びたが、希少な桜が、イングラム邸で生き延びていた。
戦後、イングラムは、桜研究の集大成である著書「観賞用の桜」を出版している。
日本は、戦後の復興と共に染井吉野が又、大量植樹され全国に植樹され桜の約8割を占めるに至った。
イングラムは1981年5月、遅咲きの桜の花弁が舞う中、
ザ・グレンジで100年6カ月の人生を終えた。大往生であった。
英国ではイングラム亡き後も、彼の残した桜の伝統が生き続けている。
今日、桜は英国中の住宅街に普及し著名な庭園には、多彩な桜が植樹されている。
桜は、王室のウィンザー城の庭園や故エリザベス皇太后の住居の庭にも植樹された。
さらに、桜の保存と育成を担う次世代の英国人たちが現れ、強固なネットワークを作ってもいる。
戦後の英国で桜が人気を集めた一方で、大戦中に起きた出来事がイングラム家に影を落としていた。
イングラムの義理の娘、ダフニーが従軍看護師として香港で勤務していた1940年、
旧日本軍の捕虜となり、3年8カ月間を捕虜収容所で過ごし、過酷な体験をした。
ダフニーと夫のアレスター(イングラムの3男)一家は戦後、イングラム夫妻の近くに住み、
夫妻と緊密な関係を築いたが、日本の桜を愛する父親と嫁の間には感情のずれがあった。
ダフニーのみならず、大勢の旧捕虜達が戦後も日本と日本人への憎しみを持っていた。
捕虜問題が日英間で大きな政治問題となった1990年代に、
北海道の桜守、浅利政俊氏の創った「松前桜」が和解に向けてひと役を買うことになった。
浅利氏は北海道で長年、捕虜の和解問題に取り組み市民運動を続けてきた経験があり、
日本の過去への償いの意を込めて1993年、ウィンザー城の庭園に58種類の松前桜を贈った。
「日本軍の行為の犠牲になった方々とその家族に哀悼の意を表したい。
新たな日英間の友好関係構築の為にこの桜を大切に育ててほしい」との手紙を添えて。
これらの桜は、立派に成長して現在もウィンザー城庭園の一角に保存されている一方、
増殖されて今や英国中に植樹され広まっている。
更に運命の巡り合わせで、子孫の苗木40本が2000年、旧イングラム邸に植樹された。
浅利氏の真摯な思いが松前桜をダフニーのつらい体験が刻まれたザ・グレンジへと向かわせたかのようだ。
「償いの桜」は、みごとに成長続けている由。イングラム家に明るく魅せているのでは。
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平成時代の新しい公園様式として見せてくれてる「花菜ガーデン」で桜を愛でていて思った事だ。
譲位される今上天皇が、平成22年6月に伊豆高原の池で植樹された「おかめ桜」。
全くの個人の感慨だが、今上天皇に置かれては、おかめ桜への思いがお有りなのでは、と。
Say good-bye ==vale Dicere "HEISEI" !!

「2019/04/13平塚市花菜ガーデン」
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